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zoom RSS もう「解釈」しか残っていない「戦争」を語る意味

<<   作成日時 : 2007/10/08 09:23   >>

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事実というものは存在しない。
存在するのは解釈だけである。


ドイツの哲学者 ニーチェの言葉。

太平洋戦争末期の沖縄戦における
「集団自決」への日本軍の関与についての
教科書記述削除の問題が、
大マスコミ間の罵倒合戦にまで発展している。

歴史的「事実」と、
それを導いたであろう「意図」。
本土決戦を決めた「中央」と、
郷土が焦土になる中で盾となった「沖縄」。
降伏の懺悔と屈辱をひきずる「国」と
空襲と空腹の記憶しか持たぬ「国民」。

あまりにも
「情報」の隔絶と離散と摩耗が大きすぎる。
結局残っているのは
断片的な「解釈」だけではないのか。

小生も含めて、
戦後世代の誰もが、
まともにあの戦争のことを
教育の場も含め聞かされたことはないと思う。

大体、昭和時代でさえ、
学校の限られた歴史教科の時間の中では
まともに教わった記憶がない。
せいぜい戦国武将の名前位しか思い出せないのも
宜なるかなだ。
近代〜現代史に時間を割かないのも、
今となってはわざととも思えてくる。

もっとも、
生き残った国民の思い出話をいくら聞いても、
死んでいった、殺されていった
無念の戦死者の声は聞こえてこないだろう。
それに彼らでさえ、
まともな情報を得ていたかは甚だ疑わしい。

そんな絶望的な
この国の記憶の断絶を感じざるを得ない。

あの戦争は・・・
「こうだった」
「こうだったと思う」
「こうだったはずだ」
「こうだったに違いない」
「こうだったと思いたい」
「こうあるべきだった」
「こうだったのではないか」
「こうであって欲しかった」
・・・
時間も地理も立場も違う
いろいろなレベルの人の情報が錯綜し、
誰も系統だって整理しようとはしない。
多分今後もそうだろう。

「歴史は繰り返す」ではない。
「人間が過去から何も学ばない」のだ。
だから同じ様なことを繰り返してしまうのだ。

戦争という特殊で過酷な状況にあって、
当事者たちは生き抜くことだけに夢中で
記憶することさえおぼつかなかったのだろうが・・・

果たして
そこに「事実の記録者」として
冷静に事態を客観視できる者は本当にいなかったのか。
いたとしても抹殺されたのか。
記録も抹消されたのか。疑問は尽きない。

「写真」だって怪しいものだ。
写す側の意図が働かない写真なんてあり得ない。
レンズを通して写せるのはほんのわずかな表面だけだ。
そこには心の内面は写らない。
横も後ろも上も下も見えない。場所も時間も実は曖昧だ。

戦争とは、全ての日常をひっくり返す
社会の究極のリセットボタンだろう。
「何かを隠す」ために統治者が使うことも
十分あり得るのではないか。

今や、あの戦争の総括が
「解釈」論争でしかなくなってしまったことで、
胸をなで下ろしている連中が
この世にもあの世にも、うようよしているのかもしれぬ。
もしそうなら
残念ながら、彼らの思惑は成功裏に終わりそうだ。

だとすれば。

我々に出来ることは、
現実に目前で起きている戦争の事実を
出来るだけ多くの目と耳とで記録し記憶し、
そこから得られる教訓をどう未来に生かすのかを
日々考えて行動することではないだろうか。

情報の断絶や格差が減少しつつある今なら。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
如何に其々が情報に対する透過した視力や真偽を嗅ぎ分ける嗅覚を保つか、が問われていると思います。やがて私達や子供たちにのしかかって来る命にも係る問題ですから・・
又三郎
2007/10/08 19:54
未だに消えぬ戦火。暴力に頼ってかろうじて保っている平和。もう考えのない先達にはご隠居願いたいところです。未来に責任を持とうとする人にこそ託したい。
言の葉ブログ
2007/10/08 22:27

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